長澤 雅春Nagasawa Masaharu
図書館長、教授
専門分野
日韓文化比較
担当科目
アジア地域学Ⅱb (文化)、実践韓国語a(購読) ほか
経歴
静岡県静岡市出身。中央大学大学院国文学専攻博士後期課程満期退学。日本映画学校(現日本映画大学)講師を経て、仁済大学(韓国金海市)外国語研究院勤務。1997年のアジア通貨危機を経験後に帰国と同時に佐賀女子短期大学に赴任する。1930年代の日本近現代史から近代と反近代の文学思想を研究テーマにしているが、渡韓を機に、1930年代日韓併合下の朝鮮教育思想や朝鮮文学・雑誌・映画・大衆歌謡など、日韓をまたがる大衆文化の形成についても研究領域を広げている。著書に『生活日本語 上/下』(일본어 뱅크)、『韓国映画を作った男たち』(青弓社)、論考に「高橋和巳〈わが解体〉の意味するもの」(小学館『高橋和巳全集 第17巻』解説)、などがある。
自分をひとことで言うと?
日韓の文化境界のさまよい人
インタビュー
――先生は静岡県のご出身だそうですね。まずは子どもの頃のお話から聞かせてください。
はい。私は1958年に静岡県清水市、現在の静岡市で生まれました。子どもの頃から高校まで、毎日のように富士山を眺めながら通学していました。地元住民にとっては当たり前の風景なのですが、九州に来て今振り返ると、とても贅沢な環境だったと思います。冬、空気が澄んだ日に見える富士山は本当に美しく、また季節や天候によって表情も変わります。そうした風景を眺めながら育ったことは、いま考えると私の感性やものの見方に大きな影響を与えたように思います。
――もともと文学に興味を持っていたのですか?
そうですね。恥ずかしいのですけど、10代のときは小説家になりたいと思っていました。でも、実際に小説を書いてみると社会や世界について分からないことばかりで、それで文学について専門的なことや歴史、哲学を本格的に学びたいと思って大学院に行くことにしました。研究分野としては、日本近現代文学、とりわけ昭和の戦中戦後文学思想を研究するようになりました。戦争という極限状況の中で、検閲と向かい合った作家たちは何を書き、何を語れなかったのか。そして敗戦後、人々はどのように戦争と向き合ったのか。そうした問題に関心を持ちながら研究を続けてきました。昭和という時代は、日本社会が大きく揺れ動いた時代でもあります。国家や思想、古典復興、個人の自由、戦争責任、戦後民主主義、戦後文学、天皇制イデオロギーなどさまざまな問題が文学の中に現れています。私は文学作品を単なる「作品」としてではなく、その時代を生きた人々の苦悩や思想の表れとして読み解きたいと考えてきました。
――そこから韓国との関わりが始まったのですね。
はい。大きな転機になったのは1995年です。その年に韓国の仁済大学へ赴任することになりました。それまで私は主に日本文学研究を行っていましたが、韓国で生活し、教育に携わる中で、自分の研究の視野が大きく変わっていきました。日本文学を日本国内だけで考えるのではなく、「海を渡った日本文学」という視点から見直すようになったのです。日本文学は、日本人だけが読んできたものではありません。植民地支配や留学、翻訳、教育などを通じて、朝鮮半島をはじめアジア各地へ広がっていきました。すると、日本文学は単なる「日本固有の文化」ではなく、アジアとの関係の中で成立してきたものだということが見えてきます。たとえば、植民地下の朝鮮で日本文学はどのように読まれていたのか。朝鮮文学は日本文学の影響を受けながらどのような独自性を目指したのか。朝鮮総督府のもと、日本語(国語)教育はどのように行われていたのか。国語教育の下で成長した子たちはその後どのような人生を歩めたのか。そして、朝鮮の人々は検閲とどのように対峙したのか、抵抗できたのか、無力だったのか。そうした問題に関心を持つようになりました。
――実際に韓国で生活してみて、印象に残ったことはありますか?
たくさんありますが、とくに驚いたのは、韓国の人たちは一般の人でも本当に歌が上手だということでした。しかも、バラードを中心に流行歌は非常に魅力的なんです。日本でも歌は親しまれていますが、韓国では歌が生活の中にもっと自然に溶け込んでいる印象を受けました。すぐに踊りだしますし。学生たちに課外活動として日本語劇の指導が終わると、「ノレバン(カラオケ)に行きましょう」と誘われます。すると学生たちは驚くほど歌がうまい。感情豊かに歌う姿を見て、「これは韓国文化を理解するうえで大切な世界だ」と思うようになりました。それからは、韓国の流行歌を覚えようと、学生たちと一緒によくノレバンへ通いました。
――研究者としてだけではなく、文化そのものに飛び込んでいったのですね。
韓国の流行歌には、時代ごとの社会状況や現代人の感情が色濃く反映されています。別れや貧困、軍隊生活、故郷への思い、社会への不満など、さまざまな感情が歌われています。そうした歌謡文化に触れる中で、「文学だけではなく、大衆文化も重要な研究対象になる」と考えるようになりました。
――帰国後は佐賀で教鞭を執られたのですね。
1997年のアジア通貨危機によって韓国経済は国家破綻寸前までになりました。そのため外国人の多くは韓国を脱出し、わたしも1998年に帰国と同時に佐賀女子短期大学に着任することができました。この時期の佐賀女子短期大学の韓国語・韓国文化教育の取り組みは、短大としては全国的に珍しい取り組みだったと思います。韓国語を学ぶことは、韓国社会や歴史、人々の感情に触れることでもあります。とくに日本と韓国の関係には複雑な歴史がありますから、単に「外国語」として学ぶだけではなく、朝鮮半島の歴史や文化も含めて理解することが重要だと感じています。そのため、授業では言葉だけではなく、韓国映画や音楽、文学なども積極的に取り上げ、学生たちには、「韓国語を通して、隣国をより立体的に理解してほしい」と伝えています。
――現在はどのような研究をされているのでしょうか?
現在は、植民地下の朝鮮における教育や文化について、多角的に研究しています。具体的には、朝鮮総督府の国語政策や教科書、朝鮮文学、映画製作、歌謡など、1930年代の朝鮮半島をさまざまな角度から分析しています。1930年代という時代は、日本の植民地政策がより強まっていった時期でもあります。その中で、教育はどのように行われたのか。日本語(国語)はどのように教えられ、内地の国語教育とどのような違いがあったのか、そして、朝鮮の人々は国語をどのように受け止めていたのか。私は、教科書や文学作品、映画、歌謡などを通して、その時代を立体的に捉えようとしています。たとえば、教科書編纂には支配者の方針が反映されます。一方で、流行歌には庶民の感情や日常が現れます。文学には支配されている知識人の葛藤が描かれ、映画製作には社会の欲望や不安、そして支配者に与する側面が映し出される。その背後には支配側による検閲がある。これら他分野からなる資料を突き合わせることで、その時代の人々が何を感じ、どのように生きていたのかが少しずつ見えてくるのです。
――最後に、学生へのメッセージをお願いします。
私は、生きる上で大事なことは「他者を理解する力」だと思っています。異なる時代、異なる国、異なる価値観を持つ人々の声、または声なき声に耳を傾けることは自分自身の世界も広がっていきます。とくに日本と韓国は、距離的には近い国ですが、歴史的にはさまざまな問題を抱えています。だからこそ、表面的なイメージだけではなく、言葉や文化、歴史を通して相手を深く理解しようとする姿勢が大切だと思います。それがまた自身側を知ることにもなると考えています。
武雄の印象
気軽に温泉を楽しむことができ、青々とした山の新緑に癒される都市です
趣味、特技、マイブーム
1920~90年代あたりまでの韓国歌謡曲を収集してはよく聴いています。
好きな言葉や信条
「後悔先に立たず」の意味を近年になってようやく噛みしめています。
愛読書
『朝鮮総督府統計年報』がとても面白いです。分類項目と数字から時代と人々の様子が窺えます。
研究者情報